カテゴリー「銀行員エピソード集」の14件の記事

目標達成の為、収益の積み増しに奔走した日々

デリバティブ倒産増加 中小が円高で損失、銀行に恨み節

『為替変動によるリスクを避けるための金融商品「デリバティブ」を銀行から購入した中小企業が、急激な円高でかえってその取引による損失が生じ、倒産に至ったケースが相次いでいる。「融資とセットで購入させられた」など、銀行に対する企業側の不満は強く、全国銀行協会への苦情・相談件数も増加した。金融庁は深刻な事態として実態調査に乗り出した。 』

(2010年12月12日 朝日新聞)

私も銀行員時代、このデリバティブ商品を必死になって売り込みました。

為替変動のリスクは当然知っていましたが、ここまでの円高を予想した銀行員は少なかったと思います。

ましてはお客様側もそう。

優越的地位の乱用の禁止と言うことで、融資と「セット」でのデリバティブ商品の販売は禁止されていましたが、それは建前だった部分もあるかもしれません。

こうしたニュースが出ると本当にお客様のことを考えて仕事をしていたか、と過去を振り返ってしまいます。

良くも悪くも考えさせられるニュースですね。。。

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まさかペイオフが適用される日がくるなんて。

振興銀ペイオフ作業入り、残高把握急ぐ

『中小企業向け融資を専門に手がける日本振興銀行(東京都千代田区)が10日、金融庁に破たん申請

したことを受け、預金保険機構は同日、預金の払い戻し保証額を元本1000万円とその利息に限る「ペイオフ」の具体的な手続きに入った。

 預保は振興銀に人員を派遣し、同じ預金者の口座が複数あった場合に残高を合算して、1000万円を超えていないかどうか調べる「名寄せ」の作業を急いでいる。預金者ごとの正確な残高を把握した上で、1000万円以下の部分について、13日午前9時から本店など16店舗で払い戻し手続きに応じる予定だ。』

(2010年9月11日 読売新聞)

ペイオフという言葉、当然銀行員として知ってはいましたが、まさか適用される日が来るなんて想像もしていませんでした。

1000万円ずつ各銀行に預けて・・・なんて資産家の方の冗談話を耳にすることもありましたが。。。

ただ、今回は破たんした銀行の性格上、日本の金融システムに対する影響も少なく、経営陣が法を犯しているということもあり、その辺の判断もあったのかもしれません。

いずれにせよ、驚きました。。。

)

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よくある民業圧迫の話。

郵政改革法案を閣議決定 小泉民営化路線から転換

『政府は30日の閣議で、郵政改革法案を決定した。

法の成立後、ゆうちょ銀行の預け入れ限度額を2千万円(現行1千万円)に、かんぽ生命の保障限度額を2500万円(同1300万円)に引き上げる方針だ。 』

(2010年4月30日 朝日新聞)

銀行員時代、所謂、政府系金融機関(政策金融機関)といわれる銀行と仕事をしたことがあります。

もちろん時に競合し、ライバル関係にもなりました。

特に中小企業の法人営業を担当していた時期は、商工中金からの肩代わりなどを画策したものです。

しかし、やはり政府系という安心感からか、非常に強く手強い印象がありました。

ということを前提に、実は先日、ゆうちょ銀行から「住宅ローンの案件ありませんか?」と電話がありました。

預金によって資金が潤沢にあれば、その運用先を探すのはどの金融機関でも同じことです。

今回の閣議決定によって、預け入れ限度額が2000万円になれば、当然にその資金が増えることが予想されます。

巷で言われている他の金融機関から預金が流れるだけでなく、その運用でも民業を圧迫する可能性があるのです。

そもそも民間金融機関がペイオフによって保護される金額1000万円と差があるのに、「うちは資金があるから、ジャブジャブ貸すよ。投資もやるよ。」となったら、民業圧迫も良いところです。

ここからは余談。

もし本当に限度額引き上げによって資金が増えたならば、政府系金融機関として使命感のある運用をするべきです。

例えば、JALのつなぎ資金を民間の3メガバンクからゆうちょ銀行が肩代わりするとか・・・まぁ、非現実的過ぎかもしれませんが。

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日本株式会社の格付けは経営リスクによりマイナス・・・

亀井・菅氏、郵政改革最終案巡りテレビで口論

『亀井郵政改革相と原口総務相が発表した郵政改革法案の「最終案」を巡り、菅副総理・財務相と亀井氏が28日のテレビ番組で「言った」「言わない」の水掛け論を繰り広げるなど、閣僚間の主張が食い違うドタバタが続いた。

(2010年3月28日 読売新聞)

金融機関では取引先に対し「格付」というものを行っています。

これは簡単に言えば企業の成績表、融資額を決定する際などに参考にされる大きな要素です。

その格付を決める際に、1つの判断材料として経営リスクが挙げられます。

経営陣が不正を行っていた、とか、社長の解任劇があった、とか、経営の不安材料がその企業の格付にかかわるケースがあるのです。

なんでこんな話をしたかというと、今の日本を企業に見立てると、まさに経営リスクによるマイナスを格付に織り込まねばならない状態だな、と感じるからです。

代表取締役=総理大臣のリーダーシップが効かず、取締役=大臣がそれぞれ勝手なことを言っている、しかもそれをまるで企業=政府としての決定事項のように発表してしまう。。。

今日言っていたことが明日変わってしまうような企業を、誰が信用できるでしょうか?

まぁ、亀井大臣のことですから、有る程度「やっちまえ」という感じなのでしょうが、ブレるのだけは勘弁して欲しいものです。

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息を止めて走る時間

今の商売柄、年明け1月~3月というのは年間でも最も忙しい時期になります。

しかし、それでも銀行員時代の年度末に比べればマシなもの。

この3月も末にさしかかると、3月31日を目指して息を止めて走るように仕事をしたものです。

決算期、ということはもちろんのこと、各個人としても張られた目標数値に達していなければ、上司からの目も厳しくなります。。。

残業はするものの、記録として残せる時間は先輩や上司の顔色を見ながら・・・

なんせ上司の評価項目には残業の削減、なんてのも入っていますから、必然的にサービス残業も増えますよね。

いずれにせよ、若手の時は必死になってやっていたものです。

そしてやっと3月31日を迎え、支店内で打ち上げの乾杯をして、またデスクに戻り残務を行う・・・

毎年、この時期になると思いだす苦い思い出ですね。

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大阪から後輩来たる。

昨日の夕方、大阪から銀行員時代の後輩が来ました。

当時からなかなか面白い奴だったのですが、まさか本厚木まで来るとは。

ということで、Deepな厚木をご案内しました。

途中、選択中だった地元の兄貴分を呼び、「三百文→べんけい→→→大勝軒」という分かる人には分かる(笑)コースでした。

また、ゴールデンウィークにはバーベキューをしようね、と約束したため、神奈川フードバトルでシロコロの焼き方に加勢できる人間が一人増えた、と確信しました ( ̄ー ̄)ニヤリ

約2年ぶりの再会でしたが、わざわざ慕ってきてくれるのは嬉しいものですね。

当時からは想像できないくらい、ビジネスマンとしても成長していました。

また、どこかで彼と会える日を今から楽しみにしています。

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福岡からの卒業そして厚木へ。

<昨日からの続き>

福岡支社からの転勤前、私の担当先は福岡県、佐賀県、大分県と広がりました。

1日に最高で450km、九州自動車道を走り回り、時にはロマンスカーのような特急電車にも乗りました。

勿論、同期の中で一番広い営業エリアだったでしょう。

本当に本当に貴重な経験でした。

地方からIPOを目指す企業、元気のある企業を目にし、その要素を学びました。

一方、経営陣のいざこざや多角化の失敗で破たん迎える企業にも接しました。

そして、銀行員として初めての担当先であったA社もそのうちの1社だったのです。

本業とは全く関係のない分野に手を出し、本来仕入れ資金に回すべきお金が投資されました。

その投資は本業の利益で補える規模を超え、さらに景気の悪化が連鎖しました。

当然、銀行もその異変に気が付き、、、倒産したのは私が福岡から転勤になった僅か1年後でした。

東京に移った私がA社の倒産を知った時、サラリーマンとして、銀行員としての転機を迎えました。

そしてA社の社長からの電話がそれを後押ししました。

「一生懸命応援してもらったけど、会社潰しちゃったよ。でも、必ずまた頑張って復活するから、O君も頑張れよ!!」

元々、銀行に長くいるつもりはありませんでした。

だって、銀行は嫌いだったのですから。

それでも銀行で様々なことを学び、一生の糧を得ました。

人間のように大きく成長し、死を迎える場面まで全てを見ることが出来ました。

だからこそ、次は本当に本当に好きな場所で自分の一生を懸けて頑張りたい、と思いました。

そう。

大好きな厚木で仕事をして生活をして、ここで頑張って一生を過ごしたいんだ、と。

実は、具体的に厚木で仕事を・・・となるまでにはもうワンステップあるわけですが、それはまた今度書くこととします。

とりあえず、銀行シリーズはここまで。

なんせ今日は私の○○回目の誕生日ですから。

<了>

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担当先は売上1000億円から1億円まで。

<昨日からの続き>

A社の担当となって間もなく、やっと私にも元々取引のある担当先が引き継がれました。

3年上の先輩が担当していたのですが、何と一部上場企業や国立大学、連日CMの流れるあの企業。。。

そう、実は銀行(先輩)からしてみると融資が必要ない上、集金などがある手間ばかりが大変な取引先だったのです。

それでも担当先の増加は嬉しいもので、一生懸命通い続けました。

その後、福岡支社の営業エリアが福岡、佐賀、大分、宮崎、鹿児島、沖縄と行内屈指の広さであったこと、そして合併による人事の凍結、減員が私の担当先を急激に増やしていきました。

一部上場企業、国立大学以外にも、全国展開する居酒屋チェーン、九州屈指のドラッグストア、誰もが口にする超有名焼酎メーカーなどなど。

担当が無くて悩んでいたのが嘘のように、素晴らしい経験をさせてもらえる企業ばかりでした。

特に、業種や規模が多岐に渡っていたことが今でも非常に大きな資産になりました。

出店戦略や広告戦略、ダイナミックな資金調達の計画を知ることは、大企業を担当する上での醍醐味でした。

一方、ビジネスローンで取り上げたような中小企業が、右肩上がりに成長していく過程を手伝えたのは貴重な時間でした。

そして、逆に衰退し倒産していく企業も担当したことが、自分自身の人生を見直すきっかけになり、銀行を辞める一つの要因にもなりました。

その1つが、あの初めての担当先であるA社だったのですが。。。

<続く>

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ビジネスローンの電話営業から担当へ

<昨日からの続き>

「ビジネスローン」というのはいわゆる形式的な審査によって与信額を決定する、定型的な融資の商品でした。

財務内容を吟味し、資金使途を監査して融資するいわゆるプロパーの法人融資とは異なりました。

そのビジネスローンの登場により、中小企業の新規顧客の開拓を行うことが銀行の戦略だったのです。

そしてその戦略の効果は地方都市であるほど効果が大きかったようです。

何故なら、今まで「審査が厳しい」、「敷居が高い」と敬遠し、都銀と縁の無かった地方大都市の中小企業が資金調達先として検討を始めるきっかけとなったからです。

当時、担当企業が無く時間を持て余していた私は、本部から送られてくるリストを見て毎日毎日「ビジネスローン」の営業電話をし続けました。

その件数は1日に200件を超えることもありました。

いかに社長や決定権を持った担当者と話せるか、工夫をし続けました。

まるで知り合いかのように電話したり、受付の女性から担当者の名前を聞き出しては次回名指しで電話をしてみたり。

そう、そしてこの電話営業の中から自分が初めて担当することとなる企業と出会ったのです。

この企業こそ輸入アパレルメーカーのA社でした。

売上高は出会った当初、約8億円でしたがその後30億円弱まで成長しました。

ビジネスローンで融資を始め、最後は本部審査先にまで融資額を増やしました。

のちに私はこのA社だけで年間1億円を超える収益を運良く上げることになったのです。

<続く>

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支店から支社へ。リテールから法人営業へ。

<昨日からの続き>

住宅ローンブームは続いていましたが、入行から半年が経ち、支店での研修期間も終了。

ここで「リテール部門」と「法人営業部門」を選択することになりました。

といっても、殆どの同期は銀行の花形と言われる法人営業を選択。

もちろん私も法人営業を選び、福岡支店から福岡支社へと配属されることになりました。

この頃は毎月のように東京や大阪である研修へと呼ばれ、毎月のように飛行機や新幹線に乗る生活。

マイルはたまるし、宿泊費も出るし、大企業って凄いな、と感じた瞬間でした。

支社に移ると、一人前の法人営業マンとなれるまで、「指導担当者」という先生役が付きます。

私の指導担当者はかつて厚木支社にもいたことのある方、しかも大学の先輩でもありました。

銀行にいる間、最もお世話になった方ですし、今でもお付き合い頂いています。

私に社会人としての基礎を叩き込んでくれ、共に笑い共に涙したこともありました。

仕事はというと、研修に行って座学をし、指導担当者さんのお手伝いをすることで実践に近づく、という繰り返しでした。

半年もすれば、自分1人で担当する企業を引き継ぎ、、、となるはずでした。

しかし私の場合、所属する課が大企業を担当していたこともあり、一向に担当先が決まりません。

研修に行けば、担当を持つ同期の話を聞いては焦り、指導担当者へも相談を繰り返しました。

そして、いつの間にか同期の中で担当を持っていないのは自分一人になったのです。

「なんで自分ばかりこんな冷遇をされなきゃ行けないんだ、こんな銀行辞めてやる。」

そう思った矢先に出てきたのが「ビジネスローン」という商品でした。

<続く>

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